私は生き続けるだろう、
現代の晩年作家・ゴダール
『アワーミュージック』についていろいろな方が書かれたレヴューや批評を読むと、そこには「若々しい」とか「初々しい」「みずみずしい」という言葉がとても目につきました。これはもうじき75歳になろうとしているゴダールの実年齢を考えると、誰でもまずはそう云いたくなると思いますし、僕もそう思いました。疲れた老人たちが「大きな物語はもう終わったのだ」と云う時代に、ゴダールだけが疲れを知らない子供のように映画を撮り続け、おそらく、ちゃんと話して聞かせてやれば、子供にだってわかるくらいのベーシックなストーリーの映画をつくっているというのは、それだけでもう「奇跡」とよべるくらいの「あり得ない」出来事だと思いました。それにまた、復興したサラエヴォの陽のあたる街路を軽快に走りぬけてゆくオルガの姿は、六〇年代のヌーヴェルヴァーグ映画の溌剌とした映画の記憶を呼び覚ますものです。このシーンに関しては、本編ももちろん良いのですが、ジェルジー・クルターク(注)が弾くバッハの「神の時こそ、いと良き時」のピアノ演奏をバックに、黒いインタータイトル画面(「約束の土地サラエヴォ」「ひとりの少女が−」)のあいだを、さっと短く駆けぬけてゆく予告篇の方が、どちらかといえば僕は好きです。
それはさておき、先ほどお話ししたようにゴダールというのは「幼」と「老」の間をいったりきたりすることをやめない「複数の年齢」(これはJ・デリダのことばです)を持った作家なので、だからこそ何の恥じらいもなく、処女作よりももっと「若々しく」「初々しい」ような映像をポンと唐突につくってしまうわけです。ボブ・ディランの歌に「僕は年をとったけど、昔よりも今のほうがずっと若い」というのがありますが、『アワーミュージック』はまさにそんな感じのする映画ですし、その前の「フォーエヴァー・モーツアルト」もそうでした。とはいえ、ゴダールがもう「晩年」と呼ばれてもおかしくない実年齢に達しているのは否定できない事実で、芸術家にしろ音楽家にしろ詩人にしろ、晩年と呼ばれる時期にはいった作家たちはそれまで執着してきた難問や矛盾と折り合いをつけ、その作品の中に和解や円熟、調和や完成、あるいは救済のしるしが見られるようになるというのが世の常です。『アワーミュージック』で驚いたのは、これまでのゴダールの映画の中で起きる死は、たいてい「なしくずしの死」か「サドンデス」で、そこには感傷もなければ意味すらないような死ばかりだったのですが、『アワーミュージック』では、オルガの死の後に天国での救済というシークエンスが用意されていました。なので最初に予告篇を見たときは、ゴダールも遂に「晩年」を迎えたかと、ちょっとそう思ったのですが、しかし「晩年」といっても、そのスタイルにはいろいろあって、ゴダールの「晩年」は、パレスチナ出身の文芸批評家エドワード・サイードが「現代の晩年」と呼ぶものの方に近いようです。
サイードは、晩年を迎えた多くの作家たちの作品に、先にお話ししたような「和解や円熟、調和や完成」が見られるのに対し、相変わらずそうしたものとは無縁のまま、晩年に背をむけ、ますます難解さを深めてゆき、これまで以上に人の不安を掻きたて、完結性をとりかえしのつかないくらいに破壊し、観客を以前にも増して困惑させ、動揺させる作家がいると云っていて、例えば、晩年のベートヴェンがそうだった、と論じているのですが、それはゴダールにもあてはまるように思います(この後のポエトリーリーディングではベートヴェンの晩年の作品を使います)。たしかにゴダールは『アワーミュージック』で、天国こそ描きましたが、それ以外のところでは、相変わらず矛盾した物語や完結しない問いをつきつけるということをやめていません。詳しく見てゆく時間がないので、わかりやすい例を出すと、例えばこうです。いま『シン・シティ』というウルトラ・ヴァイオレンス・アクション映画が公開されていて、このあいだゴダールの『ヌーヴェルヴァーグ』を爆音で観る上映会に行ったときに、そこにあったチラシで見ただけで、映画そのものは見てないのですが、その映画でブルース・ウィリスがこんなことを言ってるそうです。
◆映画「シン・シティ」のパネル◆
銃を構えるブルース・ウィリスの写真と台詞「老いぼれは死に、若い娘は生き続ける。それが公平な取引だ」。ゴダールの後姿の写真と台詞「どれほど大国の強大な力が世界を制覇しようとも、私の言葉は永遠に語り継がれる。詩人の言葉の真実を人びとが信じる限り、私は生き続けるだろう」
老いぼれは死に、若い娘は生き続ける、それが公平な取引だ… たしかにそれは、生きものの世界でのフェアな物語で、タイムリーな展開だと思います。先ほどお話ししたサイードも「健全さとはタイムリーであることだ」と云っていて、たとえばそれは、若い娘に恋をした老人が死んで、若い恋人同士がめでたく結ばれるというのがそうです。物分かりのいい円熟した晩年の作家なら、そういうフェアでタイムリーな完結した作品をつくるはずなのですが、『アワーミュージック』はどうでしょう?それは老いぼれのゴダールが生き残って、若い娘オルガが死んでいくという物語ではなかったでしょうか?つまり物語の上では、ウルトラ・ヴァイオレンスな映画の方が『アワーミュージック』よりもはるかにフェアで健全な映画であるわけで、映画を観終わった後に人をスッキリといい気分にさせるのもウルトラ・ヴァイオレンスな映画の方なのです。それに対してゴダールは老いてなお、こんな風に云っています。
「どれほど大国の強大な力が世界を制覇しようとも、私の言葉は永遠に語り継がれる。 詩人の言葉の真実を人びとが信じる限り、私は生き続けるだろう」
もうひとつ別の映画をひきあい出せば、ルキノ・ヴィスコンティの映画に『ベニスに死す』という作品があります。これは主人公のダーク・ボガードが美しい少年にプラトニックな恋をしますが、年老いたダーク・ボガードは、やがて病に冒され、ベニスで客死してゆくというタイムリーな物語です。こんな風にゴダールも、若いオルガに望みを託して自分が死に、天国に召されてゆくというフェアでタイムリーで健全な作品(『サラエヴォに死す』?)をつくることもできたはずなのに、ゴダールはそうしないばかりか、花壇に頭をぶつけてもピンピンしているような「老いたる子供」のような矛盾した役まわりを演じてしまうわけです。他にもまだあります。天国のシーンは、たしかにゴダールからの「救済」の贈り物のようですが、もうひとつの「救済」に対してゴダールは、それを気前よく与えることをしていません。『アワーミュージック』の中での講義でのことです。「ゴダールさん、デジタル・カメラは映画を救えますか?」という質問がありましたが、ゴダールはその問いに答えようとせず、ちょっと意地悪げに首をかしげるような仕草をみせただけで、あとは暗がりの中でじっと沈黙を保ったままでした。
サイードは、マルセル・プルーストをひきあいに出しながら、それに対してランペドゥーサという作家が「最後まで芸術による救済という理論を提出することがなかった」と論じているのですが、ゴダールの「沈黙」もまた、そうした「救済の理論」を拒むものです。和解と円熟の時期を迎えた晩年の作家なら、過去のいろんな確執やこだわりを捨て、嘘でもいいから「救済」や「希望」の言葉を口にして、若い人たちを喜ばせ、有終の美を飾ろうとするものですが、ゴダールは断固として、そうしないのです。さらにもうひとつ付け加えるなら、『アワーミュージック』では、サラエヴォを舞台にしてイスラエルとパレスチナの問題が提示されていました。七〇年代に「ヒア&ゼア
こことよそ」(注)という作品を通じてパレスチナの民族解放運動に深くコミットしたゴダールにとって、この問題をとりあげることは、過去の問題をもう一度「まぜかえす」ことであり、その依然として解決のつかない難題にここでまた取り組んでみたとしても、結局はやはり解決のつかない問題として、その解決のつかなさや映画の無力さを示すという結果になることが、はじめから分かっているはずなのに、ゴダールは完結しないことや解決が見い出せないことを何ら恐れることなく、そうするのです。いいかえれば、あらゆる「質問」や「問題」に「回答」と「解決」があるような、調和のとれた完結した世界を描いて、そこに安らぐということをゴダールは決してしないし、またさせてもくれない。そういう「現代の晩年」を、いまリアルタイムで生き、見せてくれているのが、ゴダールという作家なのです。次に引用するサイードのことばがそっくりそのままゴダールにあてはまるわけではありませんが、不完全なレファランス(=参照)としてここに引用しておきますので、興味のある方はそれをお読みください。
「これこそが晩年のスタイルの特権ともいえるものだ。それは絶望とよろこびという両者のあいだの矛盾を解消することなく、そのまま提示することができるのだ。ものごとを絶望とよろこびという二つのものに等しく引き裂いてゆくその力を何らゆるめることなく、ありのままにつなぎとめておけることこそ、芸術家の成熟した主体のなせるわざである。芸術家はいまや傲慢さとも尊大さとも縁を切り、そのあやまちを恥じることもなく、いわんや老齢と追放の身の帰結として得られた確信めいたものを、いささかも恥じることがないのである」
エドワード・サイード「晩年のスタイルに関する考察」大橋洋一訳*
*訳の一部を変更してあります
映画は音と映像があればいい、
編集と実験の作家・ゴダール
先ほどムービーでご覧にいれた『リア王』の中でゴダールが、レゲェのラスタマンみたいに頭からゴチャゴチャしたものをぶらさげてましたが、あれは「プラグ」のついた配線ケーブルで、プラグというのは音や映像をつなぎあわせる編集作業に欠かせないものです。映画『リア王』でのゴダールの役どころは、その「プラグ」からとった「プラギー」という名の映画作家なのですが、その作品でゴダールは、「編集」はクリエイティヴな作業であると云っていて、頭につけたプラグの束とプラギーという名は、映像と音の断片をつなぎあわせる「編集の人」としてのゴダールのアイデンティティを暗号的に表現したものです。他にもゴダールは、レコードプレーヤーやムービーカメラ、アンプ、ミキサー、ターンテーブル、ラジカセ、テープレコーダーなどのAV(オーディオヴィジュアル)機器を、どこかイタズラを思わせるような手つきで「いじくる人」として自分を引用しています。一般にゴダールの映画は「分かりにくい」というふうに云われますが、実はゴダールの映画の定義は、すこぶるシンプルで、かつプリミティヴなものです。思いきって云ってしまえば、映画にはドラマもストーリーもスターもスペクタクルもテーマソングもマーケティングリサーチも何も必要なくて、強度のある音と映像の断片があれば、もうそれで十分で、それをつなぎあわせれば強度のある映画ができる、というのがゴダールの映画についての考えだと云っても、たぶんそれほど大きな間違いではないと思います。
定義はそんなに簡単なのに、どうして難解だと云われてしまうものができてしまうのか、といえば、それはひとえに音と映像のつなぎ方が、つねに実験的で、いわゆる映画の約束事とは食いちがっているからです。たとえば、ゴダールの映画では、映画の法則ではなく物理学の法則にしたがって、光である映像が先走りして音よりも先に次の場面に進んでいってしまって、音が次の場面まで残響を響かせるということがしょっちゅう起こっています。またそれが逆になることもあります。そんな風にゴダールは、映像と音をジャストフィットさせないのです。引用した音楽もフレーズや小節単位で切るのではなく、音が最も輝く瞬間だけを明らかに大きすぎる音量で突然流し、その部分が終わるとそこでばっさり音を切ってしまう。また最近では、電話機もないのに突然ベルが鳴り、空も見えないのに鳥が啼き、岸辺も見えないのに部屋の中で波の音がするという怪奇な現象がよく起こっています。その最たるものが、最初の方でお話しした『JLG/自画像』で、ゴダールが編集したサウンドトラックだけ聞くと、まるで何か壮絶なドラマが展開しているかのようですが、画面ではゴダールが家でただ静かに本を読んでいたりする、といった具合に、万事が支離滅裂なのです。おの後で見るヴィデオ・ムービーのなかで、ゴダール自身が雄弁に語るように、ゴダールがおこなう映像と音のモンタージュは、それまで同じひとつの場を一度も共有したことのない、互いにかけ離れたところにある映像や音の、およそあり得ないような組み合わせでもって、それまで誰も見たこともなければ、また、それが何の場面であるかを表現する言葉すら見つからないような、前代未聞の瞬間やイメージの出現を実験的に作ろうとするもので、おそらくは当のゴダールですら、その瞬間やそのイメージが何なのかを分かってやってるわけではなく、ゴダールはモンタージュによって「何か」が起こるのを期待し、また、それが起きるのを待ち望んでいるのです。映画『映画史』の中で、たしかゴダールはこんなふうに自問自答していました。「映画とは何か?」「何でもない」「映画に何ができるか?」「何かが」と。そしてゴダールがそこからさらに進んで、その「何か」が何であるかを問わないのは、それはやってみるまでは分からないもので、ただ「何かが…」としか云いようのないものだからだと思います。同じく『映画史』の中のことばを使えば、その「何か」が起きるのを期待してゴダールは「かつて一度もむすびつかなかったものを、結びつくとすら思えなかったものを、むすびつける」という実験を映画を通してやり続けているわけです。というのも、ゴダールにとって「映画とは」、というよりも、「映画だけが」、そういう現実には起こり得ないような「むすびつき」がもたらす「何か」を受け入れてくれる「地上にひとつの場所」だからです。
映画『リア王』の中でゴダールは、「類推」もまたクリエイティブな行為だと云っています。ゴダールの映画の実験は、あらかじめ実験の結果や答えを万事心得ている作家が、それを観客に分け与えるようなものではなく、作家すら知らない答えや結果を「第三の作家」である観客たちが、類推によってクリエイトしてほしい、という、そういう願いの上に続けられているものなのです。それにそもそも結果が分からない時に、それを発見するためにやるのが本来の意味での「実験」ですから、そういう本来の意味での実験をゴダールは半世紀近くにわたって今なお続けているというのは、本当に驚くべきことで、ゴダールの映画は、そんなラディカルな、つまり、そのつどその根本にたちもどってゆくような実験の繰りかえしなのです。云いかえれば、ゴダールの映画が分かりにくいのは、ゴダールの映画がつねに「ただいま実験中」だからなのです。そういえば、チリの映画に『100人の子供たちが列車を待っている』という作品があります。その映画は生まれてはじめて映画を見た子供たちが、映画の原点であるゾーイトロープやマジックブロック(=パラパラ漫画)までさかのぼって、そこから自分たちの手で映画をつくりはじめてゆくところを記録したドキュメント映画なのですが、ゴダールはその映画に出てくる子供にどこか似ています。「この映画という不思議なものでできることは何だろう?」と、まるできのう初めて映画に出会った子供のように夢中で考え、「何か」が起こるのを待ちかねながら、その実験を続けているのがゴダールという作家ではないかと、そう思うのです。
そのゴダールが『右側に気をつけろ』が公開された時にたしかこんな風に云ってました。どうして人は映画に意味や理解を求めたがるのだろう、人は映画館を出た後に見上げる夜空や街の風景に意味を求めたり、それを理解しようと考えるだろうか、と。もちろんそうはしないわけで、ゴダールの映画は、人が空や風景をながめる時のように、ただそれに向かいあい、そこで起きることを自分が生きている「世界」と「生」の一部として感じ、体験するように見るのがよいのではないかと思います。もしまかりまちがって、ゴダールに「それはどういう意味ですか」などと聞こうものなら、『リア王』でやってみせたように「ブッ!」とおならをひっかけられるでしょうから、どうかお気をつけください。では、次はリバース・ショットについてお話します。
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