リバース・ショットに対する切り返しのリバース・ショット
『アワーミュージック』の中の劇中劇のような講義でゴダールは「映画の基本はリバース・ショット(=切り返しショット)だ」と云い、そのよくない見本として、ハワード・ホークスの映画『ヒズ・ガール・フライデー』のなかの二つのショットのスチル写真を見せます。そして「これがショット、そして、これがそのリバース・ショット」と交互に写真を見せながら、まるで同じ写真の左右の向きをただ反転させただけにすぎないような、ホークスのリバース・ショットの平板さと単調さを指摘し、ホークスには「男と女の区別ができなかったのだ」とクレームをつけていました。というのもまずゴダールにとってリバース・ショットというのは、モンタージュと同じくらい重要なもので、それは常に刺激的かつ挑発的で、なにより実験的なものであるべきなのです。そして「男と女の区別ができなかった」というコメントは、七〇年代に『ヒア&ゼア
こことよそ』という作品でゴダールがとりくんだ「互いに対等ではなく、また決して平等でもない、二つの対立するものの関係」という問題を改めてそこで提起しなおしたものです。ゴダールは『ヒア&ゼア こことよそ』の中で「世界を二つに分けるのはあまりに単純で、あまりにもたやすい」とくりかえし警告を発しながら、あまりに素朴に、かつ安易に、二つに分けられてしまうもののリストを数えあげてみせました。たとえば、それはこんな風にです。
「こことよそ、勝利と敗北、自国と外国、速さと遅さ、どこでもとどこにも、入口と出口、秩序と無秩序、内部と外部、白と黒、すでにとまだ、現実と夢、力強さと惨めさ、今日と明日、正常と異常、すべてと無、いつとと決して、足すと引く、裕福と貧乏」(『ヒア&ゼア
こことよそ』より)
さらには「男と女」「生きると死ぬ」そして「質問と答え」という具合にです。もし仮にこうしたふたつのものが互いに対等で、かつ平等なら、つまり本当に「対称的」な存在であるならば、それをリバース・ショットで撮ってもよいのですが、ご承知の通り、現実の多くの社会では「男」と「女」は決して平等ではなく、いまだに男の方が権力を握っているアンフェアな世界を僕らは生きています。そして『アワーミュージック』の中で建築家のペクーが云うように「私と他者の関係は非対称的」で、自分より他者を尊重するのはむずかしく、誰もが無秩序よりも秩序を好み、遅さよりも速さに価値を置き、敗北よりも勝利を求め、「よそ」よりも「ここ」のことに注意と関心を持つわけです。にも関わらず、あたかもそうした二つのものが、まるで対等に扱われているかのようにリバース・ショットで撮るのは、そこに潜む見えない不平等性や非対称性を見落としているか、あるいは、それを包み隠してしまうことになるわけで、「区別ができない」というのは、つまりそういうことです。これに対してゴダールは、映画はそういう「見えないもの」こそを表現し、また撮るべきだと考えていて、『アワーミュージック』では、パレスチナの詩人マフムード・ダーウィシュを語り部にして、それを語りなおしていました。戦争に勝利したギリシャと戦争に敗北したトロイの話がそうですし、世界中に多くの同調者を持つイスラエルともっぱらその敵として認知されるだけのパレスチナという話がそうです。実際それがどのくらいアンバランスであるかは、ためしにギリシャの歴史とトロイの歴史について書かれた本の数を比べてみれば歴然とするはずですし、あるいは映画をひきあいに出せば、アウシュビッツでのユダヤ人の虐殺やナチスによるユダヤ人の迫害を描いた劇作映画やドキュメント映画は、スピルバーグ(『シンドラーのリスト』)をはじめアラン・レネ(『夜と霧』)やクロード・ランズマン(『ショアー』)など多くの作家たち(ボスニアとの関連で云えば、ユーゴ時代にブラニミール・トーリ・ヤンコヴィッチが撮った『抵抗の詩』という作品もあります)が映画をつくっていますが、パレスチナの現状やその抵抗運動に関しては、ミシェル・クレイフィ(『石の賛美歌』)や若松孝二と足立正生(『赤軍-PFLP
世界戦争宣言』)、そしてゴダールとミエヴィルの『ヒア&ゼア こことよそ』など、まだ数えるくらいの作家たちしか作品をつくり得ていません。それ以外にオルガもまた、こうした世界のアンバランスについての語り部の役を演じています。叔父のガルシアから「なぜ自殺を?」と問われてとき、オルガはこう答えてました。「関係ないわ、生と死は別々のもの。存在するものと、しないもの」。この非対称性は決定的で、「生」は存在するのに「死」は存在しないわけです。例えば「今日」は存在するけど「明日」は存在しないし、「現実」は存在するけど「夢」は存在しないのと同じように、そこには「有」と「無」の圧倒的に容赦なき「区別」があるわけです。
さて、どうしてまたここで、こんな哲学的な話をしたかといえば、実はこのことがゴダールが「デジタルカメラは映画を救えますか?」という質問に答えなかった理由と関わっているからです。つまりゴダールは、世界を「質問」と「回答」の二つに分け、「質問」には等しく「回答」が存在するはずだ、という素朴で安易なリバース・ショット的な思い込みに対して、質問にいつも回答があると思ったら大間違いだぞと「しっぺがえし」を食わせてみせたわけで、別の見方をすれば、あの「沈黙するゴダール」のショットは、ハワード・ホークスの単純なリバース・ショットに対する批判的な切り返しであり、挑発的なリバース・ショットになっていたわけです。余談ですが、海外のレヴュー(J・ローズバウム「不服なる冬の時代に」)によると、あるインタビューでゴダールは「なぜ、あの質問に答えなかったのですか」と問われて、「それは単に自分が答えを持ちあわせてなかったからで、そもそも答えはないのだ」とそう答えたそうです。
こんなふうにゴダールの映画は、世界に存在するいろんな見えないアンバランスをモンタージュやリバース・ショットの実験によって明らかにし、それに気づかせるばかりでなく、それを埋め合わせようとする実験でもあるのですが、とはいえ、「映画とは何か?」それは「何でもない」と云うゴダールは、映画が世界を変えるなどとは決して考えてなくて、映画はいつもそれに失敗してきたし、またこれからも失敗し続けるだろうとそう考えているのに、それでもなおやはり、あの「何か」が起きるのを期待し、映画が「何でもない」ことに抵抗して、実験をやめないわけです。かつてゴダールはヴェトナム戦争の時代に『カメラアイ』という作品をつくり、その作品では「映画作家にできることは何か?」と自問しました。そしてゴダールがそこで出した答えは、映画作家にできることは、ヴェトナムの戦場に潜入することではなく、ヴェトナムから遠く離れたところにいて、映画をつくることであり、その映画の中でことあるごとにヴェトナムについて語ることだ。そしてむしろ反対に、ヴェトナムが自分たちの方にやってくるにまかせて、自分の中に、自分の日常生活の中に、ヴェトナムをつくることだ、という、非常に大胆な発想の切り返しをしてみせたのですが、それから四半世紀が過ぎて『JLG/自画像』を撮った時、誰が責めたわけでもないのにゴダールは「愚か物のJLGは思いもしなかった。第二、第三のヴェトナムと作るとはすなわち、第二、第三のアメリカを作る結果になることを」と自分で自分を批判し、かつての名言を「まぜかえし」てみせています。でも、それでもなおゴダールは、映画『JLG/自画像』ではフランス政府を、そして『愛の世紀』ではアメリカ政府をこっぴどく批判することをやめず、「国家と愛とは対極にあるものだ」「政府は人類より無知だ」「野獣の政府は野獣として扱うべきだ」と、まるで昨日はじめて出会った敵のように、ことあるごとに国家や政府を批判し、第二、第三の『ヒア&ゼア』や『カメラアイ』ともいえる『アワーミュージック』のような映画をつくり続ける不屈の作家であり、レジスタンスの作家なのです。
ところで『アワーミュージック』のプログラムに収録されたインタヴューで「映画は世界を救えると思いますか?」という質問に対してゴダールは「それは聞いてはいけない質問ですね」と切り返していますが、ある講演(「映画は考えられないことを考えるためのものだ」)でのゴダールの発言を読むと、ゴダールが人々に求めているのは「質問」ではなく、「私はこの問題が解決されるようになるためのアイデアをひとつ持っています」という「提案」のようです。
ただひとつの正しいリバース・ショットではなく、
それぞれかけがえのない複数のリバース・ショットの コレスポンダンスを…
話がちょっと大きくなりすぎましたので、「デジタルカメラは映画を救えますか?」ということに話にもどします。この質問に対してゴダールは回答を与えなかったので、ゴダールのかわりに推測してみましょう。ただし回答ではなく、デジタル・カメラのデジタルとは何かということをです。ご存知のように、デジタルというのは二進法のシステムで、音にしろ映像にしろ、あらゆるものを1と0の数値に容赦なく置き換えて表現するものです。それは世界を「二つに分ける」ものの中でも、おそらく最も野蛮かつ残酷な分断の仕方で、しかもそれは「1」という存在するものと「0」という存在しないものという圧倒的に非対称的な分け方です。はたしてこれが何かを救ったり回復させたりする仕組みになるでしょうか?ここではあえて回答は出しませんが、ただしそれには使い途があります。世界の圧倒的なアンバランスや野獣のような力を描くための媒体としては使えるかもしれません。そこで思い出していただきたいのは、オルガのDVDとそこに収められていた映像のことです。オルガがゴダールに遺したDVDが『アワーミュージック』の第一部「地獄篇」であることは、映画を見た方なら、すでにご承知の通りで、「世界中の信頼感を消し去ってしまった」とゴイティソーロが嘆いていた二〇世紀の戦争や虐殺の爆音と映像が、他ならぬDVD(デジタル・ビデオ・ディスク)に収められていたのは、理由なきことではないように思うのですが、いかがでしょう。この問いを放置したまま、今度は理想的なリバース・ショットに話を移します。ゴダールはあるインタヴュー(「長い物語」)の最後に「本当のコントル・シャン(リバース・ショット)を使った作品をぜひとも撮ってみたいと思う。そんな映画は一本も存在していない」といい、その映画は、アドリエンヌ・シャンという女の子とリュドヴィック・シャンという男の子がパリで出会う「シャン対シャン」という短編映画になるだろうと話していますが、残念ながらまだその企画は実現されてないようなので、ゴダールが考える理想的なリバース・ショットを見ることはできませんが、いくつか手がかりはあります。まずひとつは、最初にお話しした『女と男のいる舗道』での、ファルコネッティとアンナ・カリーナのリバース・ショットがそれです。『アワーミュージック』でゴダールは、ボードレールの「コレスポンダンス=万物照応」という詩を引用しています。廃墟になったサラエヴォ図書館の中で女性が朗読していたのがそれで、この詩は第三部の「天国篇」の天国の森のモデルでもあって、それはこういう詩です。
「自然はひとつの神殿だ。その命ある柱は、時折あいまいな言葉をもらす。その中を歩む人間は象徴の森を歩き、その森は親しいまなざしで見守ってくれる」
天国篇では、とりわけ白い犬がオルガを親しいまなざしで見守ってくれてましたけど、それはさておき、このボードレールの詩のタイトルになってる「コレスポンダンス」というのを正しく説明しようとすると、もうそれだけで一冊の本が必要になってしまいかねませんので、ここではごく単純に「呼応」もしくは「共鳴」あるいは、もっとずっとくだけて「コール&レスポンス」のようなものだと考えてみてください。そしておそらく理想的なリバース・ショットというのは、それが切り結びあうもの同士のあいだに何か「コレスポンダンス」と呼べるようなものがあるものだと思います。つまりそれは、あるものとそれに寄り添うものとのあいだに、魂の呼応や共鳴、あるいは、呼びかけに対する応答や、親しいまなざしの交換が、時代や国や性別や人種や種を越えてとり交わされるのが、それではないかと思うのです。ナナがファルコッティを通してジャンヌを一心にまなざし、今は亡きジャンヌのために時代を超えて涙を流したようにです。そしてゴダールは、現実には起こりえないようなリバース・ショットによる出会いや交流をつくりだす「地上にひとつの場所」が、映画であり、映画だけがそれをできると考えているように思えます。そして映画の歴史と同様、絶対的に正しいひとつだけのリバース・ショットがあるのではなく、それぞれかけがえのない複数のリバース・ショットが、互いに共存し、コレスポンダンス(万物呼応)しあう「ひとつの神殿」とは「映画」であると、そう考えているように思うです。ちょうど『ウイークエンド』のあの殺伐とした森がひっくり返ったかのような天国の森で、他者を排除することなく、それぞれが勝手に死後の生を謳歌しながら共存している『アワーミュージック』の森は、いつかゴダールが撮ることになるかもしれない『シャン対シャン』という本当のリバース・ショットの映画の予告篇のように見えるのです。
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