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『アワーミュージック』と『映画史』のコレスポンダンス


ゴダールの映画が「過去の映画」の引用から出来ている、というのはよく知られてますが、ゴダールの映画がやがてつくられる「未来の映画」の予告篇であるようなこともあって、『アワーミュージック』という映画のいくつかの部分は、突然、天から降って来たようにして出来たものではなく、その一部は『映画史』の中であらかじめ予告され、その予兆のしるしが化けて出て来たものだと云えなくもありません。もともとゴダールの映画は、その作品だけで完全に完結しているのではなく、ゴダールの映画も含め、過去の無数の映画や絵画や書物との未知のコレスポンダンスの関係(文芸批評の用語でいえば「相互テキスト性」)を持った、あけっぴろげの映画、あるいは、やがて来たるべき未来の映画や絵画や書物による「引用」や「類推」のために半開きのままにされたオープン・リソースのようなものなので、そういうこともママあり得るわけです。

ご存知のとおり、『映画史』という映画は全4部からなる4時間半くらいの映画で、その4つのパートにはそれぞれ、アナログのレコード盤のようにA面とB面があります。第4部のB面は「あらゆる場所にしるしが…」(*日本語版『映画史』のタイトルは「徴は至るところに」ですが、この「爆裂対談」の一回目に登場した中原(昌也)くんの小説のタイトル「あらゆる場所に花束が…」にちなんで、ここではわざとこう訳しておきます)というタイトルになっています。また第3部のA面には「絶対の貨幣」というタイトルがついています。『映画史』の中では特にこのふたつのパートが『アワーミュージック』と結びつきを持ってるように思います。

まず「あらゆる場所にしるしが…」には、『アワーミュージック』の講義で「よくないリバース・ショット」の例として示されていた『ヒズ・ガール・フライデー』の、あの二枚のスチル写真がパパパパパッと切り返しで映写されますが、そこにはリバース・ショットについての解説や説明は何もなく、フラッシュのように、唐突に現われてすぐに消えて去ってゆきます。このシークエンスの意図が明らかにされたのは、今回の『アワーミュージック』がはじめてで、『映画史』が『アワーミュージック』の予告篇だというのは、ひとつにはまずこのことがあります。

次に『アワーミュージック』では、ゴダールの映画にしてはめずらしく、そのタイトルが劇中の科白として登場します。「映画の原理とは、光に向かい、その光で私たちの闇を照らすこと。私たちの音楽」というのがそうです。おそらく、ここでいう「光」とは、映画の光のこと、つまりスクリーンの上に映し出される光の像や痕跡のことだと思います。そして人が誰しも心の奥底に抱えこんでいる精神の闇、たとえば、絶望や悲嘆、憎悪や不安、残酷や悪徳の念を、必ずしも追い祓うものではないにせよ、しかし束の間のあいだ、それを光で照らしてくれるのが映画であり、映画とは「私たち」のもの、というのはつまり、「みんなのもの」であり、それは誰もが共に分かち合える音楽のようなものだ、ということが、この短い科白から読みとれるように思うのですが、ただし、いかにもそれは「詩」のように短くきりつめられた表現になっているので、いろんな読み違えや誤読を呼びこんでしまうものです。なので、ここでの僕の読みも実はまるでとんちんかんなものかもしれませんが、実は僕もゴダールに負けず、まちがえるのが好きな人間なので、あまり気にせず、とりあえずそう読んでおくことにしますし、また、そんな風に読んだのは、この詩とコレスポンダンスを演じるような詩が『映画史』の中にあったからで、実はいまの読みは、それを暗黙の下敷きにしたものです。これからそれを紹介します。

日本版DVDの字幕とはかなり違ってますが、いまお話したように僕は、まちがうのが好きな人間なので、その字幕にも原文にもとらわれずに、かなり思いきった意訳、というか自由訳をしてみました。今日、最初にお見せした『女と男のいる舗道』のアンナ・カリーナのように、映画館の暗がりの中で、映画の光に向かいあっている人のことを思い浮かべながら読むとわかりやすいかもしれません、さきほどと同じく、「光」とはスクリーンに映る光の像や痕跡のことであり、「夢」とは映画そのものである、と同時に、それが夢見せてくれる世界のことだと思います。「あらゆる場所にしるしが…」に登場するこの「詩」のシークエンスには、ケティル・ビヨルンスタ(注)のピアノ曲「海」の第七番が使われていますが、この曲は『アワーミュージック』の「天国篇」にも使われていて(オルガが天国の門を通過して岸辺を左から右にゆっくり歩いてゆく場面です)そこでは、この曲のはじめの最初の20秒くらいのところでいったんフェードアウトさせ、それから10秒ほど間をおいた後に、またフェードインさせて30秒くらい流すというところまで、そっくりそのまま『映画史』と同じ使い方がされていましたので、これからご紹介する「詩」と「天国篇」には何か見えないむすびつきがあると考えてよいかもしれません。一方、画面の方には、エルマンノ・オルミの映画『婚約者たち』の中で、恋人たちが抱擁しあうショットと、たくさんのカップルたちがカフェでダンスを踊るシーンをモンタージュした映像が流れていました。そしてゴダール自らがこの「詩」を朗読します。

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▼イルコモンズ訳「JLG/映画詩」
『映画史4B:あらゆる場所にしるしが…』より

いったい人は、
何をはじめようとして、
夢からさめようとするのだろう?
そして、ひとつの夢からさめた後、
次はどんな夢を
光に託そうとするのだろう?

光のなかと
そのまわりで
人は誰もが見えない
自分の夢をみる。

音楽は私たちを
光の高みまで
ひきあげてくれる。

スクリーンの下から
光があふれだしてくる。

ほら、わかるだろう、
ダンスがはじまると、
人はたがいに手をとり、
くっついたり離れたりする。
まなざしが互いのうちに沈み、
身体がぎこちなくふれあう。

相手を夢からさめさせぬよう、
また再び闇にまいもどせぬよう、
夜でもなく昼でもないこの場所を。

私たちの愛の
なんと素晴らしいことか。

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後半の方にある「夜でもなく昼でもないこの場所」とはいったいどこのことなのでしょうか?昼間なのに夜のように暗く、そこに集まった人たちが共に光に向かい合う場所とは?そして、ゴダールが云う「私たちの愛」とは何をさしているのでしょうか?ゴダールがこの地上で愛してやまないものとは?そして夢からさめた後に人が今度は自分のものとしてはじめるかけがえのないものとは?……… とはいえ、「詩」を説明するなどというのは、そもそも野暮の骨頂、野蛮の極み、「そんなヤツは犬に食われてしまえ」と、昔からそう云いますので、もうこれ以上は話しません。それにやはりこれは、ちゃんと光と音楽のついたゴダールの『映画詩』(←間違い:『映画史』)を全部通して見るなかで解釈し、その光と音楽のまわりで読んでもらうのが最善だと思いますので、ここではそれは「あらゆる場所にしるしが…」の16分46秒目からはじまる、とだけご案内しておきますし、次にお見せするムービーでもそこはわざとハズしてあります。あと、これは余談ですが日本版『映画史』のDVDには浅田彰さんが監修したリファレンス機能がついていて、実際に使ってみると分かりますが、これは凄まじく便利で、一回これにハマってしまうと、もうこれなしではゴダールの映画が見れなくなるくらいの悪魔の発明です。なので『アワーミュージック』をDVD化するときは、ぜひこのリファレンス機能つきでお願いします、プレノンアッシュさん。

なお次に見ていただくムービーでは、いまのポエティカル(詩的)な話から一転して『映画史』と『アワーミュージック』のポリティカル(政治的)なつながりの方に話を移します。

◆上映◆イルコモンズ編「〈映画史4B〉のなかの〈アワーミュージック〉」(2分14秒)
『映画史4B』と『映画史3A』を中心に『映画史』全編を2分弱に編集したもの。『アワーミュージック』の「地獄篇」でも使われていたエイゼンシュタインの映画『アレクサンドル・ネフスキー』や出所不明のニュース映画の断片、ロベルト・ロッセリーニの戦争三部作『ドイツ零年』『無防備都市』『戦火のかなた』のほか、「サラエヴォでも…」のインタータイトルが挿入されたトッド・ブラウニングの映画『古城の妖鬼』のモンタージュ映像をカットアップ・モンタージュしたもの。ただし、編集に使ったのは、コピーガード機能のついたゴーモン版の『映画史』VHSビデオで、画像や音の乱れや歪みはコピーガード機能によるもの。このムービーではそれらのノイズをそのまま活用した。

まず『映画史』の第三部A面にあたる「絶対の貨幣」の最初のヴァージョンが編集されていたのは、サラエヴォを最大の激戦地としたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が最も激化していた時期(1992年〜1995年)と重なります。それは、セルビア系勢力によるクロアチア系住民とムスリム(=イスラム)系住民の民族浄化の大虐殺が起きていた時期で、アウシュビッツ以後「最悪のもの」といわれた1995年の「スレブレニツアの大虐殺」のさなかに「絶対の貨幣」はロカルノ映画祭ではじめて公開されました。

ヨーロッパ中の関心が集まる映画祭で上映された「絶対の貨幣」の画面の奥からゴダールは「いまヨーロッパである民族が虐殺されている」「我々の目の前で虐殺し、放火し、略奪し、父と母の喉をかき切り…」とその血塗られた惨状を語り、「この小さな国の受難はいつ終わるのか」とそう問いかけていますが、それはその当時まさしくリアルタイムで続いていたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に言及していたわけです。続いて編集された『映画史』の第四部B面の「あらゆる場所にしるしが…」には、トッド・ブラウニングの映画『古城の妖鬼』のスチル写真の上に挿入された「サラエヴォでは…」のインタータイトル文字を読みとることができます。そしてゴダールは、かつて『カメラアイ』を撮った時にそう誓ったように、自分がサラエヴォの戦場に行くのではなく、いま自分がつくっている『映画史』の中にサラエヴォの戦場がやってくるように、戦禍を描いたゴヤの版画やスケッチをはじめ、ロッセリーニの戦争三部作『ドイツ零年』『無防備都市』『戦火のかなた』そして『アワーミュージック』の「地獄篇」でも使われていた第二次大戦時のニュース映画などを荒々しく、しかしきわめて緻密につなぎあわせ、それらの映像を通してボスニア紛争の惨状を語ります。特にシューマンのピアノ曲「子供の情景」をバックに、絵画のモンタージュで綴られる子供たちの惨禍についてのシークエンスは、胸をかしむしられるほど強烈な「何か」をつくりだしています。そして「いま・ここ」の場であるヨーロッパにとって「よそ」であるサラエヴォで、いま起こっていることに対して「ヨーロッパは連帯責任を負うのだ」とゴダールは断言し、そのことを「ヨーロッパ諸国の政府に知らさなければならない」と映画の中からそう呼びかけました。『アワーミュージック』で建築家のペクーが破壊されたサラエヴォの橋のたもとで口にしていた「私が責任を持つ他者とは、ここではムスリムとクロアチア人だ」というのは、この「あらゆる場所にしるしが…」でのゴダールのコール(呼びかけ)に対するレスポンス(応答)、つまり作品を超えたコレスポンダンスになっていたわけで、『アワーミュージック』にはそんな風に『映画史』の中に刻まれた現実の歴史のしるしが痕跡をとどめ、そのときの叫びがエコーが響かせているわけです。

また『アワーミュージック』の講義では、ナチスの強制収容所で瀕死の状態に陥ったユダヤ人のことをナチスが「ムスリム人」というスラングで呼んでいたという逸話が示されていました。イスラエルのユダヤ人とパレスチナのムスリムの関係を考えると、皮肉というよりほかないこの事実は「あらゆる場所にしるしが…」の中でも語られていたものですが、実はこれは、ゴダールがアウシュビッツの本を読んで知ったこととして『ヒア&ゼア こことよそ』の中ですでに一度とりあげていたもので、『アワーミュージック』のそれは三度目にあたるものです。ゴダールが『ヒア&ゼア こことよそ』で引用していたニュース映像と同じ映像が『映画史』ではスローモーションとモンタージュを使って再引用されていました。つまり『アワーミュージック』には『映画史』を経由するような格好で『ヒア&ゼア こことよそ』からの遠いリフレインが鳴り響いていたわけで、ゴダールはこんなふうに過去の作品と現在の作品とをつなぎあわせ、互いにコレスポンダンスさせながら、第二、第三のレジスタンス映画を作りつづけることををやめない作家なのです。

あと、これは余談ですが、『アワーミュージック』に出てくる廃墟になったサラエヴォ図書館の場面で、誰もいなくなった図書室に、ムスリムの女性が最後に遅れてやってきて机の上に本を置いて立ち去ってゆきますが、あの本が何だったのか、非常に気になるところです。もちろんオルガが最後に赤いカバンから取り出そうとした本も気になりますが、それと同じくらい気になります…なんだか暗い歴史の闇の話になったので、ここでもう一度、映画の光の話にもどします。

 

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第一回爆裂鼎談に登場した中原昌也の小説「あらゆる場所に花束が…」
『映画史』4Bに説明も解説もなしに示されていた『ヒズ・ガール・ フライデー』のリバースショット。
注)ケティル・ビヨルンスタ「海」第七番 (Ketil Bjornstad "The Sea Z")はここで試聴できます。
エルマンノ・オルミの映画『婚約者たち』の、このモンタージュをバックにゴダールが光と夢と音楽を語る。
日本版『映画史』DVDのメニュー画面。各場面ごとに、そこで引用されている本や映画、楽曲名などがリアルタイムで検索できる。
ボスニア紛争を報じるグラビア写真とドラクロワの絵画のモンタージュ。 (『映画史』3Aより)
バッハの「我を憐れみ給え、あゝ主なる神々よ」が流れるなか、戦禍の写真がモンタージュされる(『映画史』3Aより)
ショパンの「子供の情景」が流れるなか、子供を身籠った女性と胎児の惨殺を暗示するモンタージュが示される(『映画史』3Aより)
ロベルト・ロッセリーニ『無防備都市』の拷問のシーン(『映画史』3Aより)
トッド・ブラウニング『古城の妖鬼』のスチル写真に「サラエヴォでは…」のタイトル文字がインサートされる(『映画史』3Aより)
ナチスは瀕死のユダヤ人のことをムスリムと呼んだ(『ヒア&ゼア こことよそ』より)
強制収容所のユダヤ人の写真に「ムスリム」のタイトル文字がインサートされる (『アワーミュージック』より)