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私たちの時代の作家ゴダール


よく考えてみれば『アワーミュージック』という映画は、きちんと話してきかせてやりさえすれば、子供にだってわかるくらいの話です。それはひとえにこの映画が、ダンテの『神曲』の「地獄・煉獄・天国」という三部構成からできてるからで、まず「地獄」のような戦争とその歴史があって、僕らはその歴史のあとの「煉獄」の世界に生きていて、オルガという女のひとが世界のために自分の命をなげだして「天国」に召されていったというのは、本当に子供にだってわかる筋書きです。『アワーミュージック』のプログラムに掲載されているインタヴューの中で質問者の方が「この映画には若い世代に対する暖かい視線を感じます」とそうコメントされてますが、僕は『アワーミュージック』は、若い世代だけでなく、さらにその後ろで順番を待ってる子供たちの方にも向けられているように思いました。ゴダールとミエヴィルの作品に『二人の子供のフランス漫遊記』というテレビ番組があって、僕はこれをシナリオとスチル写真でしか見たことがないのですが、『アワーミュージック』の講義には、この『二人の子供のフランス漫遊記』にあった「他者」としての子供たちへの視線に通じるものを感じました。「天国篇」に「弟がうまれたよ」と誕生を告げる男の子が登場しますが、おそらくあの男の子は、ゴダールの講義のあいだ、その隅で画集をめくり続けていた女の子とペアになっていて、その女の子はその昔「聖母を見た」という少女をイメージさせるものです。『アワーミュージック』には、そんなふうに新たな「誕生」や「奇跡」を告げにやってくる他者であり、来るべき未来の世代である子供たちへの遠い目配せのようなものを感じました(『JLG/自画像』でゴダールは、はじめて自分の子供の頃の写真を公開しましたが、あの男の子はどこかその分身を思わせます)。ここでちょっと変な話ですが、もしみなさんが、子供に何かひとつだけゴダールの映画を見せるとしたら、どうでしょう?たとえ今はわからなくても、いずれ分かる時がくるということを前提に見せるとしたら、みなさんならどの映画を選びますか?僕なら迷わずに『アワーミュージック』を選ぶと思います、逆にいえば、それ以外にないように思うのですが、どうでしょう。あるいは『時間の暗闇の中で』もいいかもしれません。あれはアルヴォ・ペルトの音楽がとてもみずみずしくてきれいだし、最後の『イワン雷帝』のショットは、子供を仰天させて泣かせるのにはもってこいです。というのも僕は、自分がそうであったように、映画というのは子供に日常的には得がたい、いろんな感情を体験させてくれる「感情教育」の場だと思ってますので。

ところで、かつてこのゴダールのことを「我々の時代の作家」と呼んだ世代がいます。もうじき老齢にさしかかるその世代が、もしこの映画を見て「天国を描くなんて、何ともゴダールらしからぬ…」などと口にした時は、ぜひこう云ってあげましょう。「そのとおりです、これは「あなたたちの時代の作家」であったゴダールが撮ったものではなく、いまや「私たちの時代の作家」になったゴダールが、私たちのために撮ってくれた映画なのですから」と。さきほどお話した、アドリエンヌという女の子とリュドヴィックという男の子がパリで出会うという本当のリバース・ショットの映画『シャン対シャン』がつくられれば、きっともっとそうなるでしょうし、これまた、まだ実現されてない映画『動物たち』(社会主義者が政権をとった後に女たちがそれを奪い、さらに子どもたちがそれをかっさらうという話)がつくられたら、ますますそうなると思います。ゴダールはかねがね自分の代表作は「撮られなかった映画」だとそう云っていますが、こういう未だ撮られていない映画の中にこそ、ゴダールの「子供」としての本質が潜んでいるのかもしれません。

 

「アザーミュージック」

さて、では「もうそろそろ」、このへんでポエトリーリーディングをはじめたいと思います。今日ゲストにお招きした声楽家のさかいれいしうさんに、これから読んでいただくのは、マフムード・ダルウィーシュが書いた「だんだん世界がとじてゆく (The Earth is Closing on Us)」という詩です。ダルウィーシュは『アワーミュージック』に実名で出演していたパレスチナの詩人で、テルアビブから来たジュディットのインタヴューに応えていたのが彼です。ジュディットはイスラエル人のジャーナリストで、ダルウィーシュはパレスチナの詩人ですから、二人の立場はこの「煉獄」の世界で、互いに敵対し対立し合う関係にあります。そして映画をご覧になった方はお分かりの通り、ゴダールはこの二人をリバース・ショットで撮っていません。明らかにすれちがいのズレた斜向かいの構図で撮っています。そもそもジュディットのダルウィーシュへの最初の質問からしてきわめて挑発的なものですし(これはイスラエル軍事政府の対パレスチナ政策を連想させます)、ダルウィーシュの本からの詩の引用も不正確なものでした。結果としてこのインタヴューは非常にぎくしゃくした印象を与える不首尾として終わっています。もしこれが円熟した晩年の作家だったら、いまだ現実には困難であるようなイスラエルとパレスチナとの「和解」や問題解決の糸口のようなものを描いてみせたかもしれませんが、ゴダールは断じてそうしませんでした。かわりにゴダールは、この失敗したインタヴューに「よそ」から別の対話者を招きいれています。ネイテイヴ・アメリカンの若い三人組がそうです。サラエヴォの廃墟になった図書館で「そろそろ同世代の我々が出会うべき時では?同じ土地のよそ者同士として」と述べていた男性が真剣な面持ちでダルウィーシュの話に耳をかたむけているショットがありましたが、あれがそうです。それにつづいて大理石の階段を女性がゆっくりと、しかし着実な足どりで降りてくるショットがありました。このインタビューは質問者であるジュディットではなく、(どこか若いころのオノ・ヨーコを思わせる)そのネイティヴ・アメリカンの女性の顔に思いがけず笑みがこぼれたその一瞬のカットで終わります。まるで何かよいことでもあったように。『アワーミュージック』のプログラムに掲載されているインタヴューによると、ネイティヴ・アメリカンを登場させるというこのアイデアは、ゴダールが考えついたものではなく、映画『ヒア&ゼア こことよそ』の時の通訳で、ダルウィーシュの詩の翻訳者でもある、歴史家のエリアス・サンバールの発案によるものだそうで、ゴダールは今は亡きこのサンバールに『アワーミュージック』を捧げています。パレスチナ人であるサンバールは、共に迫害を受けてきた者同士としてネイティヴ・アメリカンと親しく交流を持った経験があって、その時の記憶がこのアイデアのもとになったようです。そうした事情をふまえてないと、このネイティヴ・アメリカンの登場はいかにも唐突で不自然なものに思えますが、ゴダール自身は後にこう語っています。

「パレスチナ人の本当のリバースショットとなる人たち、向き合える人たちとは、おそらくイスラエル人ではなく、このインディアンたちでしょう」

つまりゴダールは、ジュディットとダルウィーシュの対話をあえて不首尾なものにするかわりに、亡きサンバールの代役でもあるダルウィーシュとネイティヴ・アメリカンを出会わせることで、いまだ撮られざる本当のリバースショットの試し撮り、あるいはリハーサルを試みていたのではないでしょうか。『アワーミュージック』ではその後もう一度、ネイティヴ・アメリカンが登場します。ボスニア戦争で破壊しつくされ、いまちょうどその修復作業が進められている石橋のたもとに再び彼らが姿を現します。でも、それは何とも不思議な感じのする現われ方でした。荷物をまとめた三人組がピックアップ・トラックで立ち去ってゆくのを見送った後、ジュディットが何気なく「うしろ」(ジュディットがその直前に建築家のペクーから教えられた話では「過去」のこと)をふりかえると、まるで白昼に現われた幽霊のように、伝統的な民族衣装を身につけた三人組が無言でそこに立ちつくしていたというのがそれです。あれはいったい何だったのでしょうか。それを解くカギは橋にあります。このシーンの前に、教室の子供たちに橋のことを教える授業のシーンがありましたが、そこで建築家のペクーは、橋の再建は観光客たちのためのものではなく、「過去を修復し、未来をつくるためのものであって、ふたつの対岸をむすびあわせるもの、それが橋なのだ」とそんなふうに語っていました。だとすると、その橋の下は、リバースショットやモンタージュを通じて「かつて一度もむすびつかなかったものを、それどころか、結びつくとすら思えなかったものをむすびつける」ことのできる「地上にひとつの場所」だといえます。まずひとつにはジュディットを軸にしてネイティヴ・インディアンたちの虐げられた「過去」と、サラエヴォの子供たちがこれから拓いてゆく「未来」とが切り結ぶのですが、幻影のように立ちつくしたネイティヴ・アメリカンのショットは、さらにそれ以外のモンタージュに対して、その到来を待ち受けているように見えました。つまりネイティヴ・アメリカンの幻影は、いま「ここ」にない「何か」の幻影が「よそ」からやってくるにまかせるための「空間」を空けて、その到来を待ち受けて立っているように見えるのです。これがそのショットなのですが、どうでしょう?

「こどもに注意!」の標識(『愛の世紀』より)
マフムード・ダルウィーシュ
すれちがいの構図
はすむかいの構図
「そろそろ同世代の我々が出会うべき時では?同じ土地のよそ者同士として」
何かよいことが…


・映画『アワーミュージック』より

「過去を修復し、未来をつくるためのものであって、ふたつの対岸をむすびあわせるもの、それが橋なのだ」
いかがでしょう?画面の「うしろ」の方に立っている三人組の「前方」の方にちょうど人がひとり立てるくらいの「空間」があるようには見えないでしょうか?僕はふだんグラフィック・デザインの仕事をしていることもあって、映画を見ていてもつい画面の構図やアングルに目がいってしまい、このショットのほぼまんなかの、しかも最前列という、いわば画面上の特等席がぽっかり空いているのが無性に気になってしまうのです。この空きの空間を見たときに思い出したのが映画『ヒア&ゼア こことよそ』で、パレスチナの少女がダルウィーシュの「私は抵抗する」という詩を朗読するポエトリーリーディングのシーンでした。このショットがそうです。


・映画『ヒア&ゼア こことよそ』より

いかがでしょう?たび重なる戦闘と破壊ですっかり廃墟になってしまったカラーメの街を背にして、画面のまんなかででパレスチナの少女が持てる限りの声をふりしぼってダルウーシュの詩を朗誦しているところです(ズボンをはいているので男の子と見間違えそうになりますが、女の子です)。いまお見せしたこのふたつのショットをモンタージュしてみたとしたら、どうでしょう。パレスチナの少女とネイティヴ・アメリカンが廃墟になった街と橋を背にして、ひとつの場所を分かち合うようなイメージが現れないでしょうか。

 
・映画『アワーミュージック』より 映画『ヒア&ゼア こことよそ』より

互いに向かい合ってこそいませんが、「そろそろ同世代の我々が出会うべき時では?同じ土地のよそ者同士として」と云っていたネイティヴ・アメリカンと、もし今も生きていれば、ちょうどその彼らと同じくらいの年齢になっているはずのパレスチナの少女が「同じひとつの画面のなかのよそ者同士として」コレスポンダンスするというリバースショットにならないでしょうか。もっとも「百聞は一見のイメージにしかず」といいますので、実際にこれから、さかいさんにやっていただくポエトリーリーディングのうしろで、その映像のコレスポンダンス実験をご覧にいれますので、どうかご覧ください。

◆上映◆イルコモンズ編「アザーミュージック」(6分11秒)
『アワーミュージック』『時間の暗闇の中で』『映画史』に引用されたニュース映画を再引用してつなぎあわせた「地獄篇」。『ヒア&ゼア こことよそ』でパレスチナの少女がダルウィーシュの「私は抵抗する」を朗誦する場面に『アワーミュージック』のモスタル橋のたもとに立ちつくすネイティヴ・アメリカンの映像をモンタージュしたものに「あらゆる場所にしるしが」「地上にひとつの場所を」「アフター・ザ・ラストスカイ」のテキストが挿入される「煉獄篇」。『リア王』でゴダールが息をひきとる場面の直後に置かれた花びらを摘む手のショットを逆転再生したシークエンスを引用した「天国篇」。これにベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番の第3楽章をオーバーダビングしたもの(使用したのはスメタナ四重奏団によるとりわけ荒々しい演奏)。

「アザーミュージック」地獄篇

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「だんだん世界がとじてゆく」
(原詩:マフムード・ダルウィーシュ 訳詩:イルコモンズ)

 世界がすみっこの方からだんだんとじてきて
 ぼくらをいよいよ最後の小道に追いつめてゆく
 ぼくらはなんとかしてそこを通りぬけようとして
 自分の手足までもぎとったというのに
 それでもなお大地はぼくらを押しつぶそうとする

 いっそのことぼくらが麦だったらよかったのに
 そしたら死んでもまた生きかえることができるから
 でなければ、大地がぼくらの母さんだったらよかったのに
 そしたらきっとやさしくしてくれるだろうから
 あるいは、ぼくらが岩に描かれた絵だったとしたら
 鏡に映して夢のなかへ運んでゆけるのに

 ぼくらは泣いた
 あの子どもたちの祭りの日のことを思い出して

 ぼくらは見た
 最後に残された土地のひらいた窓から
 子どもたちを外にほうりなげた者たちの顔を
 ぼくらの星はその顔に鏡をつきつけるだろう

 ぼくらが世界の果てにたどりついたとき
 その先ぼくらはどこへ行けばよいのだろう?
 そして最後の空がつきはてたとき
 鳥たちはどこを飛べばよいのだろう?
 草木が最後の息を吐ききったとき
 どこで眠りにつけばよいのだろう?

 ぼくらはそのわずかな血で
 ぼくらの名前を記すだろう
 ぼくらはその翼をもぎとって、
 ぼくらの肉がうたう歌をききながら
 ついに死んでゆくだろう

 この最後に残された小道の上で
 そう ここで この土地で
 ぼくらが流した血のうえに
 ここからもあそこからも
 オリーブの樹がなるだろう

 弟が生まれたよ

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「アザーミュージック」地獄篇
「アザーミュージック」煉獄篇
「アザーミュージック」煉獄篇

『アワーミュージック』《と》 『ヒア&ゼア こことよそ』

いかがでしたでしょうか。ゴダールの『映画史』のようにうまくはできませんが、時間と空間をこえて「ここにいる者」と「よそにいる者」が「地上にひとつしかないこの場所で」出会い、コレスポンダンスするというリバースショットのイメージになってはいなかったでしょうか。これはまさに「映画だけが」できることで、ゴダールが映画を使って絶えず実験を試み、「映画にできること」としてつくりだそうとしている「何か」というのは、おそらくこういうイメージだと思いますので、ここではそれをゴダールに無断で勝手に編集してみました。もともとの詩のタイトルは「だんだん世界がとじてゆく」ですが、それとは逆に、モンタージュとリバースショットを通じて、いろんな「他のもの」や「よそのもの」に対して「だんだん世界がひらかれてゆく」ように見えるようにつくってみたのでですが、いかがでしたでしょうか。

このムービーは『アワーミュージック Notre musique』をもじって「アザーミュージック l'autre musique」というタイトルをつけました。構成も『アワーミュージック』の「地獄篇」などから引用した映像をつなぎあわせた「地獄篇」、『ヒア&ゼア こことよそ』から引用した映像をスローモーションで再生し途中から変速させた「煉獄篇」、そして『リア王』でゴダールが息をひきとった直後に登場する花摘みの逆回転映像をそのまま引用した「天国篇」、という三部構成にしました。また『ヒア&ゼア こことよそ』のパレスチナの少女の服装にあわせて、今日はさかいさんに特にお願いして、黒い服を着て来ていただきました。音楽はベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番の第3楽章を使いました。この曲はベートヴェンが「晩年」に作曲した作品で、『カルメンという名の女』『リア王』そして『JLG/自画像』と僕が知ってるだけでも、これまでに3回、ゴダールの映画で使われたことのあるもので、ゴダールのお気に入りの曲のひとつです。最初は弱音機をつけた穏やかで控えめな調子で始まるのですが、だんだん音の振幅が大きくなってきて、次第に曲が波うつようになり、やがて突然ドライブがかかったように急に荒々しくなって、まるでヒップホップのブレイクビートをきざむような激しい調子で、ハイテンションのアップ&ダウンをくりかえすという、その当時の室内楽曲としては、かなり破天荒なもので、四重奏曲としてもおよそ調和とまとまりにない、まさにサイードがいう現代の晩年作家がつくるような矛盾と亀裂をそのまま提示したような曲です。おそらくそんなところがゴダールの好みに合っていたのだと思います。詩を朗読しているパレスチナの少女のややオーバーアクション気味の仕種がどことなく指揮者のそれを思わせるところがあったので、それでベートヴェン(注)を選んでみました。

 

さらに云うと、ゴダールが映画『愛の世紀』のために書いた「映画づくりをなさりたくないですか」というシナリオがあって、その中に、ホームレスの老人の背中を洗ってあげているかつての恋人とある男性が再会し、そこで「ふたりの手が、この社会から排除された者の肉体の上でまた結ばれる」というシーンがあります。これは『愛の世紀』の前半の終わりの方に劇中劇のようなかたちで出てきますが、ここでは、この「出会い」のシナリオを借用し、爆撃によってこの世界から暴力的に「排除された街と橋」のそばで、ネイティヴ・アメリカンの若者とパレスチナの少女が同時代の世界に生きるもの同士として出会うという、そういうイメージを見てみたいと思ってつくっみたのが、この「アザーミュージック」というサンプル・ムービーです。その最後のパートに『リア王』の逆回転になった花摘みのシーンを持ってきたのは、その花が『アワーミュージック』の『天国篇』の花壇を連想させるからですが、それと同時に映像や音を「つなぐ人」としてのゴダールへのオマージュとして添えたものです。他にもまだいろいろなしかけや細工があるのですが、自分でつくったものを自分で解説するくらいみっともないことはないので「もうそろそろ」このへんでやめて、詩の方に話にもどします。

 

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「アザーミュージック」天国篇
「アザーミュージック」天国篇
注)ベートーヴェン弦楽四重奏曲第15番第3楽章(Strins Quartet No.15 Op.132: Molto Adagio)はここで試聴できます。