抵抗のなかの希望
実は、さかいさんにポエトリーリーディングをお願いしたのはこれが三度目で、前の二回はいずれも、花森安治が雑誌『暮しの手帖』のために書いたいくつかの反戦のテキスト(「見よぼくら一銭五厘の旗」「武器をすてよう」など)をつなぎあわせたものを「抵抗の詩」として読むというものでした。ご存知のとおり花森安治(注)は自分が書く文章では「ぼくら」という一人称複数を好んで使いましたので(『アワーミュージック』の「アワー」と同じ一人称複数です)、今回、ダルウィーシュの詩をポエトリーリーディング用に書くくだすにあたっては、その花森のレジスタンスの魂を吹きこむために、人称はぜんぶ「ぼくら」に書きかえました。また子供たちが読んでも分かるように、できるだけ平易な文に訳しなおしました。ダルウィーシュのこの詩は、今日の話の中でもご紹介したエドワード・サイードの『アフター・ザ・ラストスカイ』という本のはじめに引用されていたのを見て知ったもので、『アフター・ザ・ラストスカイ』という題名はダルウィーシュのこの詩にあやかってつけられたものです。今回のテキストは、この本が出版された時にサルマン・ラルシュディがサイードの前でこの詩を朗読し、後に『ニューレフトレヴュー』という雑誌に掲載された英語版から訳しました。お聞きになられたとおり、この詩は、半世紀以上にわたってイスラエルによる迫害をうけ、幾度かのインティファーダ(市民による武装蜂起)にも関わらず、いまなおイスラエル軍事政権の占領政策によって抑圧された状況に置かれ続けているパレスチナの惨状をうたったものです。詩のなかほどに「ぼくらは見た、最後に残された土地のひらいた窓から子どもたちを外にほうりなげた者たちの顔を」というくだりがありますが、これは実際にあった虐殺事件で、ゴダールの『ヒア&ゼア
こことよそ』でもとりあげられていますので、ぜひそちらをご覧下さい。
戦闘で手足を吹きとばされ、次第に世界の果てへ果てへと追い立てられてゆき、ついには爆撃の炎で真っ赤に染まった最後の空のそのつき果てるところまで追い詰められていくという、この世の地獄のような状況をうたったこの詩は、『アワーミュージック』の中でダルウィーシュが語っていた「喪失の中から生まれてくる詩」であり、「より多くの示唆と人間性をふくんだ敗北のなかの詩」ではないかと思います。詩の後半では、ひとが最後に残された小道の上でその最後の血の一滴を流して息絶えてゆくという様子が描かれていますが、しかし、その次の句では「ぼくらが流した血のうえに、ここからもあそこからも、オリーブの樹がなるだろう」という「来世」での生まれ変わりがうたわれています。この最後の句には、オルガが射殺された後に天国で耳にする「弟がうまれたよ!」と通じるものを感じたので、これもまた一種のコレスポンダンスとして、あるいは、詩による連帯として、ダルウィーシュの詩の最後に「弟がうまれたよ!」というこの句を添えました。この「来世」での「オリーブの樹」や「弟」への生まれかわりには、いわゆる「希望」のしるしを読みとることができると思いますが、実のところ「希望」というのは、ゴダールがアンドレ・マルローの同名の小説と映画を引用しながら、一度も手放したことのないもので、マルローのこの作品は、過去から現在に至るゴダールの映画で頻繁に登場してくるもののひとつです。ちなみに『ゴダール全評論・全発言』という本の最後にある索引を見ると意外にもヒッチコックよりマルローの項目の方が多いくらいで、いわばゴダールの貸借リストでもあるその索引をみると、ゴダールがいかにマルローから多くを負ってきたかが一目瞭然で分かります。例えば『アワーミュージック』でも、同乗したタクシーの中でゴダールとマイヤールが『希望』を引用しながらこんなコレスポンダンスを交わしていました。
質問:人道的といわれる人たちはどうして革命を起こそうとはしないのでしょうか?
ゴダール:革命が人道的ではないからさ、彼らがつくるのは図書館と…
マイヤール:墓地だ!
また『フォーエヴァー・モーツアルト』には、サラエヴォの劇場でマルローの小説『希望』を劇として上演するためのオーディションのシークエンスがありますし、『映画史』3Bではマルローの映画『希望−テルエルの山々』が引用されています。このようにゴダールは絶えずマルローを引用し、マルローに対して自分が負ってきた負債(借り)を返すという間接的なかたちではあるのですが、「希望」を決して手放したことがないのです。ただその反面、ゴダール自身が自らの言葉として直接「希望」を語るということがほとんどないため、ゴダールが抱いている「希望」はすこぶる目にみえにくいのですが、それはいつも映画のなかに見え隠れしています。とはいっても、その希望はハリウッド映画が描くようなファンタジー的な希望ではなく、そもそもマルローの『希望』が、スペイン戦争でファシズム政権を相手に闘ったパルチザン(義勇軍)の抵抗を讃えたレジスタンスの作品であるように、ゴダールの「希望」というのは、常に抵抗のなかに見出されるものです。分かりやすく云えば、その「希望」は天から降ってきたり、どこかから運よく転がりこんでくるようなものではなく、世界の果てまで追い立てられ、最後の空が尽き果て、ひとがその最後の血の一滴を流しきってさえもなお、やがてオリーブの樹木のように立ち上がって、世界に対して切り返してゆこうとするその「抵抗」そのものが「希望」であって、ゴダールの「希望」とはすなわち「抵抗」がまだそこに残っているということです。
『映画史』の「絶対の貨幣」(これもマルローの言葉です)の中でゴダールが、「詩が抵抗であることをマンデリシターム(ロシアの詩人)は知っていた」と語っているように、「詩」というものもまた、ことばが語ることのできないものに逆らってそれをことばで語ろうとするものであり、また現実には実現し得ないことをその現実に逆らってことばにしようとする抵抗が「詩」です。ゴダールは『愛の世紀』のプログラムに掲載されているインタヴューの中でこう云っています。
「芸術的な行為とは、何かに抵抗することなのだ。私にとってそれは、自由を求める行為ではなく、何かに抵抗する行為なのだ」
同じようにダルウィーシュもどこかでこう云っていました。
「自分の社会、文化、そして、自分自身とうまく調和を保っていられるような人間は創造者にだけはなれないだろう」
ゴダールが他の晩年の作家たちのように、容易な「和解」や「救済」に決して安らぐことをしないのは、ゴダールの中にこうした「芸術とは抵抗である」という意識がアクティヴなものとして息づいているからで、ここ数年のゴダールの映画には抵抗者へのオマージュがみてとれます。例えば『愛の世紀』ではシモーヌ・ヴェイユが、また『アワーミュージック』ではハンナ・アレントが抵抗者のアイコンとして登場します。そして『アワーミュージック』のあの「弟がうまれたよ!」ということばには、ゴダールの「抵抗のなかの希望」が示されていて、『アワーミュージック』を見ていると、まるで先ほど読んでもらったダルウィーシュの抵抗の詩がゴダールの映像と音の中を通過し、そこでレジスタンスのコレスポンダンスを演じているように感じるのです。
オルガのように、天国で尊きものが復活するという『アワーミュージック』のシナリオは、ダンテの『神曲』のペアトリーチェのそれにならったものですが、僕の思い違いでなければ、たしかダンテの『神曲』という作品は(世俗的ではなくドグマ的な)宗教上の理由で、いわゆるイスラーム圏の国々では出版がさしとめられている本です。そのことを知ってか知らないでか、あるいはそのことに抵抗してなのか、ともかくもそれを下敷きにして、パレスチナとイスラエルのことを語ってしまうゴダールの大胆不敵さは、いかにもゴダールらしいものですが、ここでは、『アワーミュージック』がダンテの『神曲』を下敷きにしてつくられた物語だという、おそらく誰もが認める動かしがたい事実にあえて逆らって、『アワーミュージック』が戦後イタリアのレジスタンス映画に匹敵するよう傑作になり得たのは、ダンテのことばではなくて、ダルウィーシュの抵抗の詩が、目に見えて動くゴダールの映像と音をくぐりぬけたからだと、そう云い放ってみたいと思います。少なくとも僕が『アワーミュージック』に感動するのは、そこにダンテのフォルムやボードレールの詩があるからではなく、ダルウィーシュの抵抗の詩が『ヒア&ゼア
こことよそ』と『アワーミュージック』をつなぐようなかたちでそこに流れこんできているのを感じたからなのです。そして、もしかすると、これはちょっと云いすぎだと云われるかもしれませんが、この『アワーミュージック』でゴダールはついに、マルローの『希望』に追いついたのかもしれません。少なくとも僕にとって、この『アワーミュージック』はゴダールにとっての『希望』に匹敵するくらいのレジスタンス作品の傑作で、ようやく「僕たちの時代の『希望』」にあたる作品が現われたとそう感じています。
他者の詩をたとえ理解できなくとも了解すること
では、最後にあともうひとつだけお話すると、今日の『アワーミュージック』についての話の席でポエトリーリーディングをやろうと思いついたのは、『アワーミュージック』という作品が「詩」というものの重要性を再認識させる作品だったからだというのがあります。それは「詩」がいまや忘れられた文学になりつつあるからではなく、9.11以後の狂いはじめた世界の政治や社会の流れのなかで、それに「抵抗」するツールとしての重要性が高まってきているのを感じると同時に「詩」に対する無理解があるように感じたからです。まず「詩」の重要性については『アワーミュージック』の中で、ダルウィーシュやゴンティソーロたちが語り部となって、語ってくれていました。「詩を持たない民族はうちまかされた民族だ」そして「ひとが恥ずかしげもなく、詩の領域を物理学者に譲り渡したりしなれけば、隠された意味が明かされ、その非凡な正体を現すだろう」と。そしてダルウィーシュはこう問いかけていました。「詩とは将来への命題であるのか、それとも権力が使う道具のひとつに過ぎないのだろうか」と。
9.11以後、もう耳にタコができるくらい聞かされた科白に「我々はテロには決して屈しない」というのがあります。それだけ読むと、いかにも勇敢な正義の言葉のように聞こえますが、『アワーミュージック』でのダルウィーシュの話に引き寄せていえば、これはトロイ戦争の後のギリシャの武勲詩のようなもので、勝者のスポークスマンが語るこの武勲詩が喧伝される一方で、敗者にさせられた人々が語る「喪失の中から生まれる真の詩」や「抵抗の詩」は寡聞にして聞こえてきません。かたや総大将の政治家はこの武勲詩を「権力の道具」として使い、何かことが起こるたびに、この勇ましい詩を口にし、それを口実にして軍備を増強したり、軍隊をよその国に派兵したり、市民生活を監視したりするのに濫用するわけです。こうした政治の詩のトリックにひっかからないようにするのも大事なのですが、それ以上に大事なのは、この権力が濫用することばに抵抗する側の詩を読み違えないということで、実のところオルガの死は、オルガが口にした「平和の詩」あるいは「将来の命題」を「テロのことば」として人びとがとり違えてしまったことによって起こった悲劇だともいえるからです。たしかにオルガは「イスラエルの人たちが平和のために一緒に死んでくれればうれしい」と口にしましたが、そもそも爆弾も銃も何も持ってないオルガに、誰ひとり人が殺せるわけもなく、そのことばは、殺人や破壊を伴わない祈りの詩として聞き遂げられるべきものだったのに、世界に蔓延するテロに対する不安や怖れ、そして他者に対する不信感や疑心暗鬼の念から、それは詩として理解されず、テロの予告としてうけとられてしまった時、まるで「あやしきことばはすべて罰せよ」と云わんばかりに狙撃兵の銃が火を吹き、誤解をただす間もなく、その凶弾が一瞬にしてオルガの命を奪い去ったわけです。
無論、オルガははじめからそうなることを承知の上でそうしたわけで、いわばそれは「詩による自殺」だったわけですが、もし人々がそれをダルウィーシュの詩のように「〜が〜だったらよいのに」という、現実にはあり得ないような仮想や仮定をうたった詩として受け取っていたなら、その自殺も未遂に終わったわけです。つまりオルガの「詩による自殺」は、人が他人の言葉や詩を理解できず、また理解しようともしなくなった時代をいま僕らが生きているのだということを教えてくれるものです。また、ゴダールが「似かよっているから厄介なのだ」と注意を促していたように、カバンのなかの本をとりだそうとする本当に何でもないごく普通の仕種が自爆テロのそれと間違ってとられてしまいかねない世界をいま僕らが生きているのだということもまた教えてくれています。
とはいえ、詩とは本来あやういもので、それはどのようにでも解釈できる自由な言葉なので、その詩の内容や意味をつねに正しく「理解」することは難しいでしょうが、だとしても「それは詩である」ということを「了解」することならばできるはずで、その了解さえあれば、少なくともオルガは死なずにすんだかもしれない。そういうことから、いわば「詩のレッスン」のようなものとして、今日ここでポエトリーリーディングをやることを思いつき、オルガの最後の詩「イスラエルの人たちが平和のために一緒に死んでくれればうれしい」と似た構文をもったダルウィーシュの詩を読んでみることにしたわけです。そもそも詩の意味なんて、それを書いた当人ですら分からないことも多いのですし、「100年たったら帰っておいで、100年たったらその意味わかる」という詩もあるように、たとえその時は分からなくても、いずれ分かる時がくるということだってあるのですから、大切なのは、たとえその意味が理解できなくても他者の詩やことばに耳をかたむけ、それを了解すること、そして回答がないことや解決が見えないことに耐え、容易なリバースショットや勇ましいことば、心地のよい救済や回答に抵抗する力を養うことではないかと思うのです。子どもたちの毎日なんて、その連続ですし、それにもし人がその力を失ってしまえば、詩も映画も芸術もみんな消えてなくなり、あとはテレビとニュースとコマーシャルだけの世界になるでしょうから。
というところで話を終わりします。長い時間おつきあいいただき、ありがとうございました。以上です。
では、いったんここで休憩しますが、もともと今日の話は「爆裂対談」という対談シリーズの4回目にあたるものなのですが、ご覧のとおり「対談」ではなく「講義」のような格好になっています。そういう意味でこの対談シリーズのハーモニーを乱しているわけですが、とはいえ不協和音を挿入することで逆にハーモニーがひきたつということもあるので、それはそれでいいと思っているのですが、それでもやはり対談から生まれてくる思わぬアクシデントやハプニングも捨てがたいので、この休憩の後に、まだすこし時間をとっておきましたので、もし何かご質問やご意見がありましたら、この話に対するレスポンスとして投げ返していただき、それを今回の対談にしたいと思っています。もちろんレスが何にもなくて対談が失敗したとしても、それはそれで全然かまいませんので、あともうしばらくおつきあい願います(休憩
intermission)。
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【おしらせ】
今日2005年12月3日は、ゴダールの75回目の誕生日で、ちょうどキリがよいので、イルコモンズの「アザーミュージック講義」の連載はここでいったん終了します。もしご要望があれば、休憩後のコレスポンダンスと、その後のトークとムービー(「切り裂きジャンとつなぎ屋リュック」)を「補講」として追加掲載する用意もありますが、それは「単なる問いあわせ」ではない「具体的な提案」がBBSに投稿された場合に、それにお応えするというかたちで、そうしたいと考えています。なお今日は、ゴダールの誕生日というまたとない機会ですので、ゴダールとその映画に対してこれまで負ってきた負債(借り)のそのいくらかなりとも返済するために、この講義録をゴダールへの返礼としてギフト・アップします。以上、次の四半世紀におけるゴダールのさらなる実験と抵抗の晩年を願って。
イルコモンズしるす。
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