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イルコモンズ・レイトトークショー
<一>なる国家と歴史の孤独に抗する
<二>であることの愛とそのはじまり


前回は青山の小さなカフェで行われた小田マサノリ氏のトーク&レクチャーですが、今回は場を劇場に移し、より多くの方に彼のオリジナル・スライドを交えたレクチャーと、さかいれいしう氏の魂に染み入る感涙のポエトリーリーディングを堪能していただきました。



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世界のどの国の法律にも書かれてない「タブー」を犯して…


今晩のレイトトークショーをつとめさせていただきますイルコモンズの小田です。
どうぞよろしくおねがいします。

さて、いまみなさんがご覧になられた『アワーミュージック』のなかで、ゴダールが講義をするシーンがありました。そこでゴダールはこんなことを云っていました。


小田マサノリ (イルコモンズ)
(おだ・まさのり)

1966年生まれ。元・現代美術家、民族史家。2002年の「美術家廃業宣言」以後も「殺すな」発起人をはじめ、イルコモンズ、T.C.D.Cとして、数々のアートイベントや論考をジャンルを超えて展開。現在、中央大学文学部兼任講師(文化人類学)。●主な論考:「見よぼくら四人称複数イルコモンズの旗」(「現代思想」2003年2月号)「リミックスのやめどころを知る」(「リノベーションスタディーズ」INAX出版)「びびびのねずみ男をめぐる冒険」(「ユリイカ」2005年9月号)●主なアートイベント:「日本・現代・美術・沈没」(2000年水戸芸術館)「give piece/peace a chance」(2001年/横浜トリエンナーレ)「去年、トリエンナーレで」(2002年/横浜赤レンガギャラリー」

 

■映画の原理


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さかいれいしう
(さかい・れいしう

石川県生まれ、声楽家。さまざまなアーティストと共演しながら、歌手活動を展開。モノローグオペラ「新しい時代」(2000年東京/京都)主演「宥蜜法 白鳥の歌をきけよ」(2003年/豊田市美術館)「ヴォイスプラントロンライブ fort-da!」(2004年/大阪CASO)「世界ミーム博覧会」(2005年/名古屋能楽堂)出演。「方法マシン」メンバー。●TVCM:大阪ガス提供番組オープニングアニメ「Design Your Energy」●参加CD:「routine」(ポリドール)「エンジェルズ・ティアーズ」(東芝EMI)ほか。
http://www.reisiu.info/

「映画の原理とは光にむかい、
その光でわたしたちの闇を照らすこと、
わたしたちの音楽」
この言葉にちなんで今晩は、このパネルと電灯を使ってお話をさせていただきたいと思います。ただ、これですと、うしろのほうの席の方には見えにくいかと思いますので、途中からプロジェクターを使ってご覧いただく予定です(注:パソコンの不具合でプロジェクターは使えませんでした)。

さて、おそらく世界中のどの国の憲法にも法律にも書かれてないけども、この世界には「やってはいけない」ことがあります。そのひとつは「映画館で、映画が終わったすぐあとに、映画館のなかで、その映画について、誰かが語ること」。これは何人といえども「やってはいけないこと」だと、僕はそう思っています。特にゴダールの映画の場合がそうで、ゴダールは映画というものを「考えることができないものを考えるためのものだ」と考えていて、映画というものを、それ見た人、あるいは見てしまった人が、それまで一度も考えることのなかった「何か」をそれぞれ自分で考えはじめるための「方法」や「場」として映画を撮りつづけている作家です。ですから、それを誰かがかわって考えたり語ったりしてはいけないと思うわけです。

そのゴダールの映画について、映画評論家の淀川長治さんが、かつてこのようにおっしゃっていました。ちょっとそれを読んでみたいと思います。

 

■淀川長治のゴダール評(モノクロ版)


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「この監督の映画は、光と影と色彩をもって胸を刺す。
これを彼は、映画の光の花火として打ち上げる。
かくしてそこに散り落ちる、花火の散り花に、
詩の文字をつづる。ワンシーン、ワンカットに
あらざる意味を、おのれでつくる楽しさにふけるがよい」

 

まさにそのとおりだと思います。ゴダールの映画というのは、それを見た人が、それぞれ自分で勝手に「あらざる意味をつくる」ものであり、いってみればゴダールの映画は、思考の「しかけ花火」であり、人の思考に火をつける導火線のようなものです。だから、やはり、誰かがかわりに爆裂したり語ったりしてはいけないし、またそうする必要もないのが、ゴダールの映画だと思うのです。

ところで先週、この劇場で蓮實重彦さんと青山真治さんがゴダールに対する「愛情に満ちた悪口」を述べられていました。それを客席で聞きながらふと思い出したのが、淀川さんのゴダールに対する「悪口」でした。かつて淀川さんは、こんなふうにもおっしゃってました。

 

■淀川長治のゴダール評(カラー版)


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「私はゴダールが好きで嫌いで、ヴィスコンティやパゾリーニが神さまで、
ゴダールを悪魔と思う。映画を手段にしている論説家、だから大嫌い、
そう思う。
ところが、そう思いながら、ゴダールとなると駆けつけるのは、
澄みきっている映画を見せるからである。ゴダール以外、つくれぬ映画。」

 

僕にとって淀川さんは「映画批評の父」ならぬ「祖父」にあたる人で、ちょうど今日がそうですが、毎週、日曜の夜の、ちょうど今ぐらいの時刻に、三〇年間以上にわたって、テレビの映画解説者をつとめられてこられた方です。「日曜洋画劇場」というのがその番組で、この番組がはじまった年に僕は生まれ、この番組で洋画のたのしみをおぼえました。このあとでお話をするジャン・ヴィゴ(注1)の映画も、実はこの淀川さんが選んだ「クラシック映画コレクション」で見たものです。

それはさておき、淀川さんのこの批評は、ゴダールの映画の核心を見事についたものだと思います。ご存知のようにゴダールの映画にはいろんな矛盾があり、矛盾の満艦飾(まんかんしょく)のような映画です。そしてゴダールは、その矛盾をあえて解決/解消/決着させずに、その矛盾がつくりだす「何か」を期待して、それをさまざまなかたちで気前よく見せてくれます(これについては「第4回爆裂対談! アザーミュージック講義」をご覧下さい)。そのことを淀川さんは、「論説家」が好んで使うような「矛盾」という言葉をあえて使わずに、「私はゴダールが好きで嫌い」という、そのものズバリ矛盾した趣味(判断)をしめし、ゴダールの映画がもつ矛盾を我と我が身にひきうけるような格好で、その核心をきわめてシンプルに説いてみせてくれています。自分にとってゴダールは、悪魔であり、大嫌い、でも、そのゴダール以外にはつくれない澄みきった映画があり、自分はそれに駆けつけてしまうのだと。映画評論の「長老」であり、映画の「語り部」である淀川さんが遺したこの言葉だけを紹介して、若造の自分はこのままとっとと荷物をまとめて帰りたいところなのですが、そういうわけにもいきませんので、さきほどお話したこととは矛盾してしまいますが、今晩は「映画館で映画が終わった後にその映画について語ってはいけない」という「タブー」をあえて自分でやぶる覚悟でお話をさせていただきたいと思います。

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注1 ジャン・ヴィゴ
1905−1934 フランス生まれ。
パリ大学ソルボンヌ校で哲学を専攻しながら映画を勉強するが、結核が悪化し、療養生活を送る。南仏ニースで療養を兼ねてカメラマン助手をしている時に撮影監督ボリス・カウフマンと出会う。その後、『アタランタ号』や『新学期 操行ゼロ』など四作品のみを遺して29歳という若さで結核のため死去。
その後彼の遺功を讃えてフランスの新人映画監督に贈られるジャン・ヴィゴ賞が設立される。1960年、ゴダールも『勝手にしやがれ』で受賞。